だってあなたが優しいから
058:零れ落ちる涙
敗戦によって荒廃した居住区のさらに荒れた場所があるのを卜部は知っている。書面が意味を成さず刹那的な口約束とその時々で事態は流動的だ。店構えは固定的ではなく幌や天幕があれば上等で、ただ商品を並べるために布を敷いただけの店もある。扱う品も売り手も日々変わる。相場や良識には何の意味もない。今日の釣果は揚げ菓子と煙草だ。暗渠を控えて孕んだ壁に背を預けて人の流れがうねるのを眺める。逼迫した生活は余裕を奪い、駆り立てるから個や顔を認識しづらい。指名手配の貼り紙が皮肉だ。顔写真が薄ぼけて景色の一部になっている。
野放しではないが首輪でつながれているわけでもない。監視はされているがそれだけだ。撒けるし見つかることの繰り返し。通信の傍受はお互い様。咀嚼すると甘味が口の中へ広がった。隣へ並ぶ気配。鋭利だが冷徹ではない弛みがある。
「僕にも一口ください」
躊躇のない口ぶりに卜部は残りを押し付けた。甘かったがすでに飽きてもいた。押し付けられたそれを嫌がることもなくもぐもぐと口にしている。
「なんであんたここにいる。あの人ァ」
「知ってます。買い食いもバレてますよ」
小食でも偏食でもないのにあのエネルギーはどこへ行くんだろうって。あんたこそ喰うわりに肉になってねェだろうが。唇を拭うと手の中で煙草の箱をもてあそぶ。甘味が思った以上にくどく、煙草の苦みが増すだろうと思ったのだ。隣では完食したらしく油紙をくしゃくしゃと丸めている。目線を向けると蜜だか油だか知らないがその所為で唇に艶がある。燃えるように紅い舌先を覗かせて唇を舐める仕草は妖しい。あんた。名前で呼んでください。敬語が表面的だ。公私を分けるだけの理知があるから薄っぺらい口調になっているのは故意だろう。卜部は体を向けた。亜麻色の髪は毛先へいくほど蜜色に透ける。乳白の肌や聡明と傲慢の入り混じった年頃特有の双眸は血統の上等さか。くすみも傷みもないのが彼のこれまでの生活水準。何故卜部たちの団体に身を投じたのかは知らない。聞いたかもしれないが印象として薄い。
「ライ」
階級を省く。例え傾きかけでいても軍属の体裁と習慣は抜けきらない。つい階級で人を呼ぶ。日の浅いライの方がこういったほころびは少なかった。
「卜部さんが食べたいです」
ライはにこにこと笑んだまま試すように蒼い目で卜部を見る。卜部は痩躯だが丈もある。目方がないかもしれない分、骨の在り処が判るような体をしている自覚くらいある。撤回を言外に含めた沈黙さえも、ライはにこにこと微笑んでかわす。まだ年齢的にも完成しきらない華奢ともいえる体躯に覆いかぶさってやる。蒼い双眸が陰りにその色を深くする。驚いたように見開かれる。蓮っ葉なことを言うかと思えば案外うぶだ。
そのまま体を傾がせて卜部は桜唇を吸った。ちゅ、と音がする。肌が白いから唇は幼く桜色をしている。そのくせつやを帯びると妖しく艶めく。変なやつ。揶揄するつもりで重ねた唇は息を継いで何度も触れあう。卜部の体の傾ぎに合わせるようにライは上を向く。同性同士の抱擁くらいありふれるこの場で二人は景色の一部とみなされる。白い繊手がにゅうと伸びて卜部を抱き寄せる。髪を梳き耳をくすぐっては耳裏のくぼみを押してくる性質の悪さがある。行為に慣れた体が押されて口を開けるところへ瑞々しい柔肉が潜り込む。舌が絡みちゅうっと吸い上げられては潤みが流し込まれる。促される前に卜部はそれを嚥下する。ごくりと動く喉の動きや攣れを感じるように、ライの目が驚きから笑みに色を変える。ついばんでいたはずなのに貪られている。華奢で年若いのに玄人のように要所を抑えられて卜部は己の軽率さを呪った。自分から仕掛けたと思えば情けなくもある。食むように歯を立てて離れた互いの舌先をつなぐ糸が切れる前にライの膝がぐりぐりと脚の間を割ろうとする。
「育ちがわりいな」
「貴族のたしなみです」
言い草である。何がたしなみだくそったれ。もう知られているなら僕が食べてもいいんですよね? 下品だぜ。上品だと言った覚えはありません。若い力は発条のように強く卜部の襟を掴んで引っ張った。すぐそばの虚へ連れ込まれる。寝床を選ばないだけの生活をしていることが行為の始まりを許容してしまう。
「誰が誰を喰うって」
「僕が、あなたを」
言葉の間にも指の動きは止まらない。釦や留め具を外してはだけさせていく。するりと這う白い手がひやりと冷たくて身震いするとくふりと妖艶に笑われた。冷たいですか? つめてぇ。それってもう火照ってるってこと? 猫科のしなやかさを帯びる体が卜部にかぶさる。唇を吸われた。細い。目方も並みかそれより軽い。だが、強いと思う。見た目通りの脆弱だと思っているとひどい目にあう。戦闘機を駆り、卜部たちにくっついての逃走生活にも耐える。華奢だが弱くはない。見た目を裏切る強さの差に酔いそうになる。
後ろ、向いて。言われるままに背を向けるとぎゅっと抱擁される。感覚の鈍い背中に柔らかさが触れてくる。抱擁していた手や腕が解けて不穏に這いまわる。胸や腹を撫でて下腹部へ下りていく動きにためらいはない。不意に離れた手がぐいと卜部の襟を抜いた。引っ張られたと思うとうなじへ思い切り噛みつかれた。灼きつく痛みが走って音と息を呑みこむ。頸とも背中ともつかない位置であるが無防備な場所に違いはない。一帯が膨張したような麻痺に襲われてじんじんと痺れがくる。思わず手をやろうとするのを叩き落とされた。おい。なに? 敬語が消えた。噛んだだろうが。見えてないのに判るんですか。開き直ったようなそれに追及の無意味さを感じる。嘆息して力を抜くと脈打つ痛みが強くなる。ねっとりと舐られてちりっと沁みた痛みが走る。傷があるのだろう。
気が逸れた隙を狙われた。一掴みで抜き身を掌握されて体が跳ねる。熱くなってる。揶揄と同時にぬくもりがすりすりと寄ってくる。とろりとした蜜をまとったままの指先が引き抜かれたかと思うと菊座を狙われる。
「痛いって泣いてくれたらやめようと思ったのに」
悪態さえも出てこない。熱源の在り処と指先だけでライは卜部の体を簡単にあしらった。吐息が濡れてしまう。ざらりと荒い壁に爪を立てて縋りつきながら尻を抱えられている。布地はずるずるとゆっくり落ちていき、膝や膕に引っかかってわだかまる。泣いてよ。そうしたらすごく。…なンだよ。忙しなく早い呼吸は吐息を湿らせて閉じきらない口元から涎が垂れる。胎内深くへ入り込む存在がもう何なのか判らない。
「泣かせるの興奮する」
「くそ野郎が」
息を吐く。思考が熱にぼやけ始める。塗りつぶされていく。
「藤堂さんだったらよかった?」
胎内を深々と犯される。あ、う、と音のような声が漏れた。ぎちりと爪が軋む。下腹部が膨れていく。
縋っていたはずの壁の荒さが背中を傷つける。ずるずると力が抜けて頽れるのをライも無理に押しとどめない。むやみに長い四肢を投げ出す。重怠い。脚の間からは白いものがあふれた。ずるずると這いずるような動きに汚れる。楽な体勢を取ろうと怠い体が反射のように足掻く。ライは助けもせず硝子のような蒼い目で卜部を眺めてから身支度など調えている。小憎らしいくらい動揺もしないし慌てもしない。取り繕わないんですね。どう誤魔化すンだよ。悪態を吐くのを悪戯っぽく見下ろされる。その蒼い目が潤んだ気がして卜部は眉を寄せた。何事もなかったかのような格好のライが卜部の元へ屈む。伸びやかさを思わせるだけの四肢を折りたたんでいる。
「ねぇ」
楽しげな顔だ。少し眇められた目が笑みのように。唇が熱の名残のように紅い。それが蠢いた。
「ウラベサン」
引き結んでから戦慄くような隙間が開く。卜部は言葉を待った。堪えている目をする。倦んだような諦めたような、けれど往生際悪く駄々をこねる。細い首がごくりと尖りをうごめかせた。卜部も痩躯だがライだって肥満しているわけではない。むしろ線が細い。筋肉も過剰についたりしておらず繊細な顔立ちに見合うなりだ。
「……なんでもない、です」
態度を変えない卜部を蒼い目が子供っぽく責める。無邪気な矛盾をはらんで潤んでいる。卜部の膝にライの手が触れる。熱を交わしたばかりなのに冷たい気がする。卜部は嘆息して気のない相槌を打つ。
「あっそ」
あげられた手がぽんぽんとライの頭を撫でる。亜麻色の髪は外へ向けて跳ねている。くしゃりと幼子にするように撫でてやる。余計な言葉はかけない。拒まれるような気がした。ぽろぽろと落涙した。蒼い双眸が色とあいまって水面のようだと思ったそばからこぼれた。うぅう、と唸りのような嗚咽が堪えきれていない。隠すように顔を伏せると髪が幕のように垂れて顔を隠した。卜部の膝に触れている指がぎちと紅い痕をつける。震えるそれを咎めない。冗談みたいにひどい有様だと思いながら行為の怠さに負ける。ライが退かないからと理由を押し付けてさらさらとした亜麻色の髪をもてあそぶ。くるくると巻かれてもくせもつかずに解ける。
「……卜部、さん……なんで……?」
応えない。ライはぐずぐずと鼻を鳴らしたがさらに問い詰めたりはしなかった。おい、服着るから退けって。くすっと吐息が笑ってそのくせ退く気配もない。
「やだ」
もう少し僕のウラベサンでいて。誰がお前のだよ。卜部さん。ぬけぬけと言い放つ。爪を立てる手がぬくんでくる。その体温に解かれていくような気がした。
《了》